名称 |
圓教寺
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読み方 |
えんぎょうじ
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通称 |
西の比叡山
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参拝時間 |
8時30分~17時(冬季) 8時30分~18時(春季~秋季、日祭日は延長あり)
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参拝にかかる時間 |
(未記入)
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参拝料金 |
志納金 大人(中学生以上)500円 小学生300円 小学生以下無料 特別志納金 大人(中学生以上)1,000円 小学生500円 小学生以下無料 別途シャトルバス協力金 500円
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トイレの有無 |
(未記入)
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電話番号 |
0792663327
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ホームページ |
http://www.shosha.or.jp/
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SNS |
Instagram、Facebook
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御祭神・御本尊 |
六臂如意輪観世音菩薩
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封建時代 |
(未記入)
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創始者 |
(未記入)
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建物 |
国の史跡に指定されている圓教寺の境内は、姫路市街の北方およそ8kmに位置する書写山の山上一帯を占め、境内地は東西に長く広がる。市街地から近く、標高も371 mとそれほど高くないが、境内地には自然環境が良好に保持され、山岳寺院の様相を呈する。 古来、書写山への登山道として、東坂(ひがしざか)、西坂(にしざか)、六角坂(ろっかくざか)、刀出坂(かたなでざか)、鯰尾坂(ねんびざか)、置塩坂(おしおざか)の6つがあったが1958年(昭和33年)、東坂に沿ってロープウェイが開通してからは、ロープウェイ山上駅から仁王門を経て、摩尼殿へ上る参道が主となっている。 境内地には、明確な境界線はないが、仁王門などのある「東谷」、摩尼殿付近の「中谷」、大講堂・食堂(じきどう)・常行堂(じょうぎょうどう)および奥之院などのある「西谷」に分けられる。西国三十三所観音霊場の札所でもある摩尼殿が一山の中心となる堂であるが、圓教寺の本堂にあたる大講堂や、性空の像を祀る開山堂のある奥之院なども、信仰上重要である。秀吉入山までは2700余石を有した。江戸期は833石となり、鎌倉室町時代の30%程となった。
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概要 |
西国三十三所のうち最大規模の寺院で書写山(しょしゃざん)に位置し、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である。京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。 境内は、仁王門から十妙院にかけての「東谷」、摩尼殿(観音堂)を中心とした「中谷」、3つの堂(三之堂)や奥之院のある「西谷」に区分される。伽藍がある標高371mの書写山は、兵庫県指定の書写山鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されている。個人の写真撮影について、圓教寺では「ご自身の目で見えるものは自由にお撮りください」と告知されている。 山内には、姫路藩本多氏の墓所である本多家廟所があり、そこには本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓もある。室町時代の応永5年(1398年)から明治維新まで女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)に札を納めて帰った。 近年では、2003年公開のハリウッド映画『ラスト サムライ』のほか、NHK大河ドラマ『武蔵』(2003年)や『源氏物語千年の謎』(2011年)、『天地明察』(2012年)、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』(2014年)、『駆け込み女と駆け出し男』『黒衣の刺客』(2015年)、『本能寺ホテル』『3月のライオン』『関ヶ原』(2017年)、『G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ』(2021年) のロケ地になった。
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由緒・歴史 |
書写山の山上にあり、康保3年(966年)、性空の創建と伝えられる。もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前よりその地に祠が祀られていたといわれる。山号の由来はこの「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、この「曽左(そさ)」も素盞に由来する。創建当初は「書写寺」と称した。仏説において書写山は、釈迦如来による霊鷲山の一握の土で作られたと伝えられ、「書寫山」の字が当てられたのは、その山がまさに霊鷲山を「書き写した」ように似ることによるといわれる。また、山上の僧が一心に経典を書写する姿に、山麓の人たちが崇敬をもって称したとも伝えられている。 性空の生年については、西暦903年説、910年説、928年説があるが、『性空上人伝記遺続集』(三千院所有、重要文化財)によれば、性空は延喜10年(910年)の生まれで、貴族の橘氏の出身であったという。性空は出家した時、すでに36歳であり、それから約20年間、霧島山、脊振山など九州で修行を積んだ後、霊地を求める旅に出て、康保3年(966年)の57歳の時、書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりであるとされる。入山して4年目の天禄元年(970年)、天人が書写山内のサクラの霊木を賛嘆礼拝するのを見た性空が、弟子の安鎮に命じて生木のサクラに如意輪観音の像を刻み、その崖に3間四方の堂を建てた。これが如意輪堂(現・摩尼殿)の創建であるという。 性空の伝記や説話は『性空上人伝記遺続集』のほか、『元亨釈書』、『今昔物語集』などにも見られる。それらによると、性空は俗事を厭い、栄華や名声に関心がなかったが、都の皇族や貴顕の崇拝が篤かったという。なかでも性空に対する尊崇の念が強かった花山法皇は、寛和2年(986年)に来山して、圓教寺の勅号を与え、米100石を寄進。性空はこの寄進をもとに講堂(現・大講堂)を建立したとされる。花山法皇以外にも、後白河法皇や後醍醐天皇など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立が行われている。 花山法皇勅願の「円教」という寺号には、輪円具足を教えるという意味がある。円の形(輪円)は欠けたところがなく、徳において最も成就した状態を象徴していることから、自己を完成する道を教える寺の意となる。 武蔵坊弁慶は、一時期、書写山で修行したとされており、机などゆかりの品も伝えられ公開されている。ただし史実である確証はない。一遍、一向俊聖、国阿らの時衆聖らが参詣したことでも知られる。一遍は入寂直前に書写山の僧に、聖教を預けた。 天正6年(1578年)、織田信長より中国地方征伐を命じられた羽柴秀吉が、播磨制圧のため乱入し、摩尼殿の本尊である如意輪観音像などを近江の長浜に持ち帰った。秀吉乱入までは2万7千石の寺領を誇り守護使不入であり、天台三大道場として栄えていた。秀吉により500石とされ、寺力は落ちた。 その後、天正8年(1580年)に、長浜より如意輪観音像だけが戻された。この摩尼殿の本尊は、性空の如意輪観音像と同木同作の如意輪観音であった。性空の生木如意輪観音像は、延徳4年(1492年)の真言堂からの火災により、蓮鏡院、如意輪堂とともに焼失している。 摩尼殿は1921年(大正10年)12月に焼失したが、1933年(昭和8年)に再建された。
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行事 |
一月一日 諸堂礼拝 国祷会 一月十八日 修正会鬼追い会式(御本尊開帳,摩尼殿) 二月三日 星祭・節分会豆まき 二月八日 花山法皇御忌法要 二月十五日 涅槃会 三月六日~九日 法華経不断読誦会 三月十日 胎蔵界曼茶羅供(御本尊開帳,開山堂) 三月彼岸中日 春季彼岸施餓鬼会 四月 開山忌(性空上人会式)(御本尊開帳,開山堂) 五月七日・八日 仏生会花まつり 五月二十八日 勧学会 法華八講 六月四日 宗祖伝教大師会(山家会) 八月九日 四万六千日お盆施餓鬼会 九月彼岸中日 秋季彼岸会施餓鬼会 十一月二十四日 高祖天台大師会(天台会) 十二月八日 成道会 十二月十四・十五・十六日 三千仏礼拝行(一般参加可) 奇数月十六日 大般若経転読会 毎月十日 開山上人会・懺法講 毎月十八日 観音講・回向講 毎月二十三日 水子・子育地蔵供養会 毎月二十八日 不動尊護摩供 毎月第三土曜日 座禅会、座禅会、己巳(つちのとみ)の日
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引用元情報 |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%93%E6%95%99%E5%AF%BA_(%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%B8%82)
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御朱印の画像 |
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授与品写真 |
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境内写真 |
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